『あ』

 「じゃ、俺、トレーニングルーム行ってくるわ」
 豪は空になった弁当箱を乱暴に袋に突っ込み、大き目のショルダーバッグを背負った。おそらく、中には練習着が詰まっているのだろう。
 「あれ? お前、3限目って方法論基礎とってなかったっけ。もうすぐ昼休み終わるよ」と筧。
 「それ、この前5回目の欠席しちゃってさ…寝坊で。それで単位落ち確定だから、木曜の3限目はフリーになったんだよ」
 と、負い目など皆無の笑顔で、豪は筧の質問に答えた。
 「じゃ、おつかれ!」
 そう言って豪は講義室を出ていった。同じように、付き合いでここに来ていた生徒の何人かは既に出ていったようで、来た時より生徒数は減っていた。
 筧は気まずかった。
 怜と二人きりになれるのは、いつもなら嬉しかったが、今は事情が違った。いっそ、豪にもずっと傍に居て欲しかった。講義室の喧騒など、あって無いようなものだ。気まずい沈黙が流れる。気まずいと思っているのは、きっと自分だけだろうけれども。
 「梅、嫌いなの?」
 最初に沈黙を破ったのは、怜のソプラノだった。歳の割には幼さを感じさせる声だ。
 「え?」
 「それ。全然、減ってないから」
 怜はスチール製の弁当箱を仕舞いながら、目線で筧の食べかけのおにぎりを示す。
 「あ、あぁ…うん、間違えて買っちゃったんだ」
 筧は残りのおにぎりを口に放り込み、眉間に皺を寄せつつ咀嚼する。口の中の梅味を洗い流すように野菜ジュースを注ぎ込み、空になったパックを握り潰した。
 「昨日の返事」と、怜。
 「え?」
 「今、していい?」
 こんな、他の生徒もいる場所で? と、筧は思わず辺りを見回した。しかし、誰一人として、自分達に注目している生徒なんていない。各々、友人とダベったり、スマホを弄ったり、寝ていたり、つまり、自分の事で忙しそうにしている。
 「あぁ、うん、いいよ」
 「筧君とは付き合えない。ごめんなさい」
 「……うん」筧は目線を怜から逸らし、何度か頷いた。「うん……そっか」
 怜からの答えは、9割方予想できていたものだった。昨日、告白してから今に至るまで、頭の中でずっとその返答を受け取るイメージを重ね、覚悟を固めて来た。しかし、そんな覚悟を打ち砕く程に、やはり現実の言葉は重かった。大手企業に内定をもらい、後は無事に大学を卒業するだけ。そんな華々しい道が用意されていた筧だが、そんなモノは一瞬でどうでもよくなった。
 「理由……聞いても、いいかな?」
 「私、院入試と卒論で忙しいから」
 じゃあ、それが終わったら? その一言を絞り出す勇気が、今の筧には無かった。これ以上、追い打ちをかけられたら耐えられる自信は無い。そもそも、入試や卒論が終われば落ち着くとも思えない。きっと怜は、院生として、より一層研究に没頭することだろう。男に割く時間が惜しい、と言わんばかりに。
 「筧君のさっきの話、面白かったよ」
 「さっきのって、この履歴書の謎解き?」
 コクリと、怜が頷く。
 「うん。筧君、頭良いんだね」
 待ち望んでいたはずの怜の言葉を、今の筧は複雑な気分で受け取った。
 「それは、どうも」
 「ついでに、これも解いてくれる?」
 そう言って、怜は机の中から白い紙きれを取り出した。4つ折りにされたそれを開くと、履歴書だった。先ほど、筧の席の中から見つかった履歴書と同じ。しかも、自己PR欄の1行目が『あ』で埋められている点も、32×10=320という余白に書かれた式まで、一緒だった。
 「さっきの筧君の話なら、こんなの1枚あれば十分だよね。なのに、どうして私の席にもあったのかな」
 「え………」
 目を見開く筧を後目に、怜は身を傾けて、隣の空席の中も探る。やはり、同様の履歴書が見つかった。
 「もしかして、この講義室の全部の席に、この履歴書はあるのかな。だとしたら、誰が、なんのために、こんなことしたんだろう?」

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