『あ』

 6号館の203号室につくと、昼食をとる生徒達がまばらに座っていた。この殺風景な講義室でわざわざ昼食をとる理由は、昼終わりにそのままこの講義室で講義を受けるためだ。加えて、一部、付き合いでついて来た生徒も何割かいるだろう。
 「どの辺に座ろうか」と筧が呟くと「あの辺、3つ空いてるな。あそこにしようぜ」と、豪が指さした先に向かう。
 3人は席につくなり、各々の昼食を机の上に広げる。チラリと、筧は怜が取り出した小さなスチールの塊に目をやる。そう表現できるほど無骨なそれが、彼女の弁当箱だ。銀一色のスチール箱を開けると、中には白米とプチトマトに千切ったレタス、そして小さなハンバーグが入っていた。それは、彼女の昨晩の献立がハンバーグだった事を意味している。怜曰く、晩ご飯の自炊は次の日の昼食のメニューも兼ねている、その方が効率的だ、との事だった。筧はそれを聞いて以来、怜の弁当のメニューを気にするようになったのを、我ながら少し気持ちが悪いなと思っていた。彼女は目をつむり、お弁当の前で手を合わせてから、静かに箸を動かし始めた。豪はと言うと、既に二つ目の唐揚げに箸を伸ばし、リスのように頬張っていた。そして、筧はまず、野菜ジュースで口の中を潤し、それからおにぎりの包みを破いた。
 
 「昨日深夜シフトでさぁ、2時間しか寝てないんだよね」「課題やった?」「おい、一昨日の飲み会代はやく返して」「遠藤さん、まだ内定出てないってよ」「はぁ…マジで店長死ねばいいのに」「ねぇ聞いてよ! 田辺先輩、盗撮で捕まったんだって! キッモいよねぇ…」「合コン開いてよ。マジで。切実に」「俺さぁ…この単位落としたら、留年確定なんだよね」「線形数学Ⅱの過去問持ってる? 持ってたらちょっと見せて欲しいんだけど」
 
 講義室を満たす生徒達の喧騒をBGMに、怜・筧・豪の3人は食事を進めていると、筧は机の中にある何かに気が付いた。
 「ん? なんだこれ…」
 筧は4つ折りにされた白い紙きれを取り出し、開いた。
 「ん~?」と、咀嚼しながら豪が一瞥する。「ただの履歴書だな。誰かの忘れモノだろ」
 怜もチラリと目線を履歴書に向けたが、相変わらず黙っていた。
 「ただの…って言うには、ちょっと奇妙だな。これ、なんのつもりなんだろう」
 筧が指さしたのは、自己PR欄の1行目だった。
 
 『ああああああああああああああああああああああああああああああああ』
 
 1行目だけ、手書き文字で、端から端まで『あ』で埋め尽くされていた。他の欄は全て空白だ。名前欄すら埋まっていない。
 「知らね。就活が苦し過ぎて、発狂したんじゃね? 経験無いから知らんけど。就活って、あんまりお祈りされ過ぎて、鬱になったり自殺する奴もいるらしいじゃん。就活こっわ」
 豪はそう言って、ペットボトルのお茶を飲んで口の中をリフレッシュした。
 「だとしても、こんな発狂の仕方する奴いないだろ。もっと書き殴ったり、履歴書をめちゃくちゃにするもんじゃないか? よく見ると字は丁寧に書いてあるし、端から端まできっちり埋めてあるのは、逆に冷静さを感じるね、俺は」
 そう言いながら、筧はおにぎりを口につけると、中身が梅だった事に絶望した。梅は大の苦手なのに、間違えて買ってしまったらしい。
 「そんなもんかね? まぁ、どうでもいいけど」
 豪は興味無さげに、今度はメンチカツに箸を伸ばす。見ているだけでも胸焼けしそうなメニューだ。怜の箸は黙々と弁当と彼女の口を往復しているが、彼女の目線は、しっかりと履歴書に落されていた。
 「それに、余白に書かれたこの計算も気になる…」
 筧が指さした余白には32×10=320という式が書かれている。
 「単純に、計算用紙代わりに使っただけじゃね? そのくらい暗算しろよって思うけどな」
 本当に高校を出たのか? と思えるくらい計算が苦手な豪に言われては、この履歴書の持ち主も形無しだな、と筧は思った。
 「怜は、何かわかる?」
 座高でも測っているのかと思うほど綺麗に背筋を伸ばして昼食をとり続ける怜に、筧は聞いてみた。彼女は、箸を止めてじっと履歴書に目を落とす。一時停止ボタンでも押されたかのように暫く静止してから、怜はスッとその目線を筧に向ける。一瞬、冷水を心臓にかけられたかと彼は思った。しかし、それは表情に出すまいと必死に努める筧を後目に、怜は無言で首を横に振るのみだった。
 「怜にもわからないんじゃ、わかるわけねぇな」
 口の中に食べ物が残った状態で喋るせいで、豪の口から跳んだ米粒が筧の腕についた。しかし、筧はそれに気付かず、ずっと履歴書に目を落として、考え込んでいる。
 「あ、でたでた、筧の癖。お前ってさ、時々、こういうどうでもいいことで考え込むよな」
 豪のセリフは、彼の耳に届いていない。豪は、自分が飛ばしてしまった米粒を筧の腕から取って食べたが、それにも、彼は気づいていない様子だった。おそらく、講義室の喧騒も、今の彼の耳には届いていない。
 豪は筧に絡むのを諦めた。沈黙が苦手な豪が、怜に何か話を振ろうか、でも話題なんて思いつかないな…と逡巡していると、唐突に筧は呟いた。
 「あぁ、わかったかも」

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