『あ』

 就活を始めて、榊原(さかきばら) 筧(かけい)が最初にした事は、就活本を読み漁る事だった。
 そこに書いてあることをマスターするため、ではない。そこに書いてあることを、如何に無視するか。極論を言えば、筧はそのために就活本を読み漁った。
 「意味わかんねぇんだけど。何? お前、面接にジャージとかで行ってたってこと?」
 渋沢(しぶさわ) 豪(ごう)は、揚げ物メインの体育会系弁当が入った袋を腕からぶら下げている。ラクロス部の主将を務める過程で培った彼の屈強な肉体を支えて来たメニューだ。一方、隣の筧は、コンビニで買った野菜ジュースとサンドイッチが1つ、おにぎりが2つだった。今日も彼は、昼ご飯は500円までという自分に課した規律を厳しく守っている。二人は、キャンパス内に並び立つ欅(けやき)越しに降り注ぐ晩夏の日差しを浴びながら、並んで歩いていた。
 「ごめん、無視は言い過ぎた。信頼しない、って言えばよかったかな」
 「同じようなもんじゃね?」
 「就活本ってさ、『必読!内定のためのテクニック!』とか『こうすれば必ず受かる!』とか、そんなタイトルばっかりだろ」
 「そうなん? 知らんのだけど」
 「あぁ…豪って、実家継ぐんだっけ」
 「そうそう、覚えてたか」
 「実家、なにやってるの?」
 「肉屋。結構、老舗なんだぜ」
 その情報は筧にとって初耳だったが、肉屋と言うのはあまりにも豪のイメージにピッタリで、刀が鞘に納まるように筧の中でしっくり来た。
 「で、続きは?」
 「あぁ、うん」
 と、筧は軽く咳払いをして続けた。
 「まぁ…就活本ってそんなのばかりなんだよ。でもさ、就活本って、就活生のみんなが読むものだろう? と言うことは、そこに書いてあることは、みんなが右へ倣えで実践してくるって事だ。面接官の立場からしたらウンザリだろうな。どいつもこいつも全く変わり映えしないマニュアル型の集まりに見える。だから、就活本に書かれてる『これをしろ!』ってノウハウは『これだけでは、受かりませんよ』って警告と解釈するべきなんだ。書いてあるのは、実は最低ライン。それをわかってない奴らから、落とされていく」
 「ふーん…そういうもんなのか。筧って、もう就活終わってるんだっけ?」
 「うん。本命だったH社に内定貰ったから」
 「何系の会社?」
 「え、知らないの?」
 「知らん、就活してねぇし」
 「いやそれでも、普通は聞いたことくらいあるだろ……大手のIT企業だよ。外資の。豪が使ってるノートPCも作ってるとこ」
 「マジ? めちゃ大手じゃん」
 「まぁね」
 「さっきあんだけエラそうに講釈たれといて、未だ内定出てません…だったら爆笑してやったのにな」
 「悪いけど、俺、デキるから」
 カラッと笑う筧の背中を、豪は軽く叩いた。キャンパスの中に広がる、よく手入れされた芝生は、この大学の売りの一つだった。その脇に設置されたベンチで、百瀬(ももせ) 怜(れい)は読書をしている。二人は、そんな怜に近づいた。
 「おつかれー」と、豪のバス。
 「おつかれ」と、筧のテノール。
 二人の声に反応する代わりに、怜は顔も上げずに本を鞄に仕舞った。立ち上がると、まるで二人が見えていないかのように一瞥もせず、挨拶も返さず、無言で6号館の203号室に向かって歩き出した。
 豪と筧も、当然のように怜の後をついていく。最初は面食らった怜のこの態度だが、これが彼女の平常運転なのだと、二人はすっかりと学んでいた。

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